ストックホルムマラソン、市民ランナーの川内選手が出場

それほど暑くないマラソン日和の本日、ストックホルムマラソンが開催されました。

トップを狙う招待選手と、17000人を超える一般参加者が

旧市街、王宮、ユールゴーデンの森、メーラレン湖沿いなど、

ストックホルムの最も美しい景色の中を走ります。

今年は川内優輝選手、坂本喜子選手と、男女ともに日本人選手が出場しました。

2人ともトップ集団に絡み、面白い展開を見せてくれました。

結果は川内選手が6位、坂本選手が5位でした。

エチオピアやケニアの黒人選手にまじって先頭集団を走る日本人の姿は

人々の目を惹いていました。

沿道の実況アナウンサーが、2人が通る際に「コンニチハ」と声をかけていました。

おふたりとも、お疲れさまでした。

 

さて、ストックホルムマラソンといえば、

「金栗 四三さん」を思い浮かべる方もいらっしゃるかと思います。

マラソン中に消えた日本人として有名なお話しです。

以下はウィキペディア引用です。


1911年、金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録を27分も縮める大記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった。

翌1912年のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れたところを通りかかった人が発見し、近くの農家で介抱された。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。

マラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。また、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。

1967年3月、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。

記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。

この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。

なお、ストックホルムオリンピックから100年を経た2012年に、金栗のひ孫にあたる男性が金栗を介抱した農家の子孫を訪ねている。


 

ストックホルムマラソンの様子を画像でご紹介します。

 

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